創造主・宇宙意思から、人類への啓示と救い ~ 『文明の創造』 と『奇蹟』 ~ 

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「覚り(二)」




「覚り(一)」

更新 2016.12.17(土) 

まえがき

 「メシヤ講座」をご覧いただいた方はすでにご承知かと存じますが、主神様が写し鏡のように地球に御写しあそばされている御意思すなわち『ミクラタナの大御神様』より、私たちメシヤ教の代表である楳木代表に、日々様々な御垂示が下ってございます。

 少し以前にそうした御垂示をもとに私なりに纏めたものも掲載させていただいてもおりました。(こちら

 それと入れ替えて、新たに賜っている御垂示のなかで「時節」と「浄化」に関する部分について、私が思わせていただいたことや考えたことを文章にしてこのHPに掲載させいていただいたのですが(h28.12.4晩に更新ミスで消失)、『ミクラタナの大御神様』より楳木代表をつうじて、その文章にたいする内容や表現方法などにつきまして、私の思考性の浅さや精神性の低さからそれらへの認識が間違えていることを、具体的に御注意や御垂示を賜りました。

 そのことを受けて、みなさまへ間違えてお伝えしてしまった部分を修正してお示しし、お詫び申し上げますとともに、その後の御垂示によって気付かせていただいた点は、昭和25年から賜ってきている「御垂示」も含めて、「自分が分析し編纂してきて培った智レベル」から「様々な実地を繰り返す中で鍛練し自らの身についた智慧レベル」という視点で考えますと、そういう視点すら省みようとしないで感覚的に御神意や御経綸について説いてきている愚かさでありました。

 メシヤ教では、こうした「気づき」や「覚り」を月次祭で報告(各月「メシヤ講座」に掲載)させていただいているのですが、日々いただいた覚りは大切に積み重ねてまいりたいと思いまして、それには日記にしてしまうよりも、分かりやすいように随時、修正、加筆をさせていただきながら積み重ねて書かせていただきたいと思いますので、随時「未完」のままとなっておりますが、その点よろしく了解いただきますようお願い申し上げます。

 (なお、御垂示は一部割愛して掲載させていただいております)



『御垂示』と「覚り」 


 私が「メシヤ講座」に参加して教えていただいた『ミクラタナの大御神様』の御垂示内容のうち、「時節」と「浄化」に関する部分について支部に来られた方々と話をしているうちに、“整理してHPに書いていこう”と思い、次の御降臨祭、節分祭、立春祭、メシヤ降誕本祝典記念大祭の大切さについて思うところを書き記して、それからまた支部の方々とそれらの大祭を通して「魂の高まり」と「浄化」についていろいろと話をしておりました翌日、平成28年12月2日、楳木代表を通じて『ミクラタナの大御神様』より、HPに書き記したなかの「三月三日から徐々に始まる世界救世教および日本の大浄化にたいして」という箇所につきまして、以下の御注意を賜りました。


 『なぜ世界救世教に限定しているのか。自らも入っていることを忘れないように!』

 『徐々に始まるのではなく、真っ只中なのだ。世界救世教は浄化は前々から起きているではないか。もう取り返しが付かないぐらいだ。しかし、霊性が低いから認識できないのだ。』(平成28年12月2日)

 『大浄化を認識したくない、自分は含まれないであろう願望が「心の隙」になり、これが悪に荷担していることになるのだ。だからこそ「メシヤ講座」を通して修正させ、向上させ高めていかなければならないのだ。』(平成28年12月2日)


 『今、神界はメシヤ教の者達が高まるのを待っているのだ。』

 『来年の3月までに立場を許されている者が高まるかにかかっている。高まらない者は使えない。それには自分も含まれていることを忘れないように!そして、平成30年までに次の者が高まらなくてはならない。』


「信仰の重大欠陥」


 ここに自省の念を込めて書かせていただいた文章がございましたが、これについて平成28年12月4日に御垂示賜りました御言葉でございます。


 『表面化した自分の間違った箇所を修正するというのは悪い事ではない。』

 『表に自分の間違いが出ていないだけで、本当はもっとずれている者は沢山いる。間違っている部分があるというのを隠そうとするよりはいい。指摘されるのを嫌がり、表に出さない者もいる。こうして間違いを修正する時間があるというのはまだいい方で、もっと切羽詰まってくると自分が間違っている、修正箇所があるというのを気付いたとしても直す時間もなく終わる、もしくは気付かずに終わるという事にもなるのだから、命ある間、自分のありのままを表に出して修正する機会を得るというくらいの気持ちがあった方が良い。』

 『“ナイストライ”だ。ただし、HPを読む相手がちゃんと今ある事を把握出来る様に、“こうなんだ”というのを理解出来る様、よく考え、親切心を持ってやっていくように。これはHPに限らず、自分の成長度合いがそのまま文章、言葉として表現されるというのを認識しておくように。そして、言葉に命が宿るように心がけることが最重要課題である。』


 『“ナイストライ”だ。』という御言葉に心がやわらぎました。ナイストライは、英語圏で「nice try」と書きまして、「惜しいが、そのチャレンジはナイスだ」という意味で使われます。『悪い事ではない。』ということは英語で言えば「no bad」です。良いとは言えないが、「悪いとは言えない。」ということかと解釈いたしております。それは、前からずっと「悪癖の修正」を知らしめ遊ばされていたことを考えますと、時節が経過するほど「昼の世界」の光が強まり、自らの奥にあったものが浮き出てまいるのですが、これは肉体の「奥に溜まった毒素」や、霊体の奥の心のさらに「奥の魂にこび付いた曇り」も同じでございまして、それが「肉体浄化」と「精神浄化」となってまいります(これらの原因は一体的に関係して存在しているものでございます)。「時節」とともに「表面化」したので、私自身の修正というのは「消極的な修正」と反省した次第でございます。もし、いままで隠していた悪癖、隠し続けていた悪癖を、自らが積極的に修正していったならば「積極的な修正」ということで、それは「良い。」ということだと思う次第でございます。


 これにたいして、平成28年12月8日に以下御垂示賜りました。


 『モノを知るというのは、それだけ自分自身をその方向に合わせる、ピントを合わせるようにするためのもので、そういった知識の使い方が出来なければ何の発動もない、という意味合いが理解できたようなので、その部分は良かった、と言ったのである。自分を修正する、という基本部分にようやくたどり着いたという意味である。』


 さらに同日以下の御垂示を賜りました。


 『自分の現在の感覚を押し通すだけでは子供。それを残した言葉(御教え)と擦り合わせて人として自分を練り上げていくのが本当。』

 『文章を書くという事は、大勢の人にそれを公開するという事。これは本当に重大な責任が伴うもので、どういった流れだったのか、何故そういう風に受け取ったのかという事情をしっかりと説明し、事実をそのままに伝えるという事。読んだ者がきちんと事実を受け取れる様にする事。何のために自分は文章を書いているのか?』


 『残した言葉』とは申し上げるまでもなく、人の姿をもって御残しあそばされた『御教え』でございます。人の姿といっても、もともと神様の姿を似せて人間の姿を御創りになっておりますから、神様の御肉体と言ってもよいかと思います。昭和29年にメシヤ様に御成りあそばされるまでの間、『明主様』の御本体であらせられる『ミクラタナの大御神様』が御教え垂れられた『御教え』で、昭和25年以降のほとんどの『御教え』に当たるものと解釈させていただいております。『何のために自分は文章を書いているのか?』という御言い回しは、私にとってはかつて何度も拝読した『明主様』の御言葉そっくりで、その御言葉を投げかけられて私は感涙に耐えません。
 昭和25年御降臨あそばされて神界では神々様が『主神様』として御呼び申し上げ奉っていた『ミクラタナの大御神様』から、現在こうして御言葉を賜っているということに、非常に畏れ多く、もっともっと御言葉を真摯に受け止めさせていただきたいと思います。

 そうした想いで善言讃詞を奏上させていただきますと、”「仁」とは種の中にあるチョンの形をしたアーモンドみたいな大きいものだが、どういう意味なんだろう”と思われ、調べてみると、中国思想では「人間からみた愛の根源」や「天地万物一体」を意味し、”明主様を梅干の種とすると中味は『ミクラタナの大御神様』であり、明は中身から出た陰陽の根源で、そこに『ミクラタナの大御神様』を合わせて明主という意味になっているのだろうか。いずれにせよ、主神様の大愛と大慈悲によって、私の中にある邪をも解脱していただいているのだ、本当に有り難い”と思わせていただきました。

 この御言葉を賜って、”心底御高覧あそばされている”と一層感銘をもって実感するとともに、他人には突き詰めて説く割には自分にはまだまだ都合よく書いていることを反省し、”自分自身を素直に見詰めて、『御教え』に当てはめて、また見詰め直し、自分の魂の向上を遮っている何の「邪」に気付いて修正していくかということを明確にしなければならない”と感じ、振り返ってみました。

 冒頭申し上げました「智レベル」につきまして振り返りますと、私はかつて某企業を退職して起業準備をしていたところ、ふと”教団分裂の根源は、御教えにたいする何かの思惑や覚りの高低差にあるのではないか”と思い、“全ての御教えを網羅して誰にでも判然とわかるように体系的にまとめることが出来て、もしそれを和解の会議の前に各幹部の方々に目を通していただければ、何をどうすればいいか検討つきやすくなるのでは”と夢描き、それから何度も繰り返し編纂し練り上げていくうちに、私自身が御神意を探り深めていくなかで、御神格についても私なりにメシヤ様は主神様格であらせられることがわかるなど、大変な喜びでありました。それと並行して、“信者の方にお伝えしてみたい”という思いに駆られ、その信者の方々はみんな私よりはるかに信仰歴の長い先輩の信者の方や資格者ばかりではありましたが、御教えをお伝えしたり、御教えをもとに私なりに御浄霊のお取次ぎをさせていただいておりました。

 そのなかで、「いままで知らなかった御教え」をお伝えするなかでお相手の方が”なるほど”と知るに至って感激されたり、それを胸に生活をされて抱えてきた問題が改善されたり、また、いままで経験が無いという御浄霊の結果に感激された方も多く、私は御教えと御浄霊の力の確かさを確信してまいるようになりました。なお本当の医学や農業や信仰のあり方というものもお伝えさせていただいておりました。

 そうして私は御教えと御浄霊の確かさを体験させていただいて、それを拡げていこうと思って、声がかかれば出向いてそれらをお取次ぎをさせていただくという日々を過ごさせていただいたのでございます。具体的には、お取次ぎした信者の方々は、教団方針と御教えの相違点や、薬併用の御浄霊の間違い、医学の誤謬や御浄霊の仕方、自然食の重要さなどを学ばれたり、信者間や家庭内の人間関係の問題などにつきましても善と必要悪の概念を軸に自らの人生を振り返っていただきながら、たいていの方は話のなかで自らが自らの非に気付かれ、そうして希望に目が輝くというように学び得ていかれたのです。

 しかし、教団がずっと指針を出してきた「霊性の向上」と「肉体の改善」が、最初お取次ぎさせていただいた一時は良いのですが、そこからはなかなか思うように進んではいきません。そのなかには最初、奇蹟がある方もございます。この進歩向上が先に進まない理由は、このたびの御垂示で、非常に私自身に「ある大きな欠陥」があったためと思わせていただいたのでございます。

 私が体験させていただいたものを、今よくよく振り返りますと、本当の医学と御浄霊という点につきましては経験を積ませいていただいておりましたが、「霊性の向上」に不可欠な「信仰雑話」(「天国の礎」編纂時に信仰箇所の礎とされたもの)につきましては、“なるほど、そうだ”という思いで、どちらかというと「知っている」というレベルで、「我」や「慢心」を出し過ぎてしまった時に“あ~、マズイな、言いすぎたな”とハッとする程度でありました。そうして何か問題があった時には、「景仰」などの御教えなども含めてそれらを頭の引き出しから出しては、「抜き身でいるような真剣さ」や「心の隙がないように」となどと意識を強くして心掛けていくこともありましたが、また同じようなことをウッカリとしてしまうという進歩無き経験でございました。

 ところが失敗をしても、「他に御教えをよく知っている人、他にしっかりと結果を伴う御浄霊ができる人がいない。」と言われ続けてきて、その点が濃いために人々が慕ってこられていたためにさほど気にとめることなく、“徳を積んでいるから、魂はそのうち上げていただけるだろう。それよりも、薬併用の浄霊の方針に巻き込まれて罪をつくらないように、人を不幸にしないように、信者の方々には医学の誤謬ときちんとした御浄霊をお伝えしていくことが緊要だ。それによって信者の方々の精神も良くなっていくのだから”という考えで、私は自分自身の精神性をあまり問題視することもなく、つまり「霊性の向上」についての問題意識自体が薄かったのでございます。当然ながら自らの「根底にある悪癖」については、”正そう”と思って深く深く探っていったことはなかったのでございます。なお、「魂に染み付いた曇り」という言葉は人様にお伝えしてはおりましたが、自己浄霊をいただくときも、自らがそこに意識するのではなく、「薬毒による曇り」のほうが多いという御教えから、薬毒の曇りを意識していただいていたのでございます。

 なぜ、「信者間や家庭内の人間関係の問題」や、「肉体の浄化」が、ある時から緩やかになり、それ以降なかなか「進歩向上」がしていかないのか、ということについて、こういうふうに思わせていただきました。

 ”自ら頭の引き出しにいれた「智」について、お相手の方の心情などを察しながら、優しく厳しくも、なんとか漏れないようにと相手相応に理論的に構築してお伝えする努力をして、最後には相手の方が「なるほど」と感涙されることがほとんど常であって、その後も暫くは証を見せられ感激され、向上に意欲的であったものが、いつしか衰えてしまう。しかしこれは、自らが高い視座で伝えていかなければ、相手の方も「智」で終わってしまい、自ら次に進んでいけないということではないか”ということで、”つまり自分は、気付かせることが出来たとしても、それ以上進むには背中を見せれる「見本」では無いことと、次へ誘うための「智慧」が無いために、同じことの繰り返しを語るという「行き詰まりのまま」にしまっている”という「一つ目の欠陥」に気付かせていただきました。

 さらにその「伝え方」というものにつきまして、自分そのものの心から言動となって現れるものと考えますと、”「救世」や「地上天国建設」の根本は、それを担う人の「魂の高さ」が無ければ、次々へと進んでいかない”ということを思わされました。

 その「魂の低さ」のために、せっかくの御教えを自分の低さで低めて伝えてしまったり、また「智」に偏って自分にはまだ身についていない「智慧」を感覚的に確かなものであるかのように伝えてしまい、それが相手の時所位に合わず不快感や不信感を与えてしまったりして、挙句の果てには、相手の方の「救われる機会」を逃してしまった、ということもございました。このことは実に神様の取次ぎ者の姿勢として、失格でございました。この見栄を張った言動が「二つ目の欠陥」であると気付かせていただいております。

 この自分の「魂を低めている根源(悪魔に通じる邪)」を、どうしても見つめて修正しないことには、”魂の向上の出発ができない”と強く思わせていただいております。
 私はすでに御教えを「知っている者」ですので、自分で気付いていた「悪癖」を内在化させていたというよりは、それに触れないようにと、「己の内在する神」すなわち「魂」を「押し込めていた」のでございます。その「魂に染み付くほどこびりついた曇り」は非常に濃いもので、「まるでガンが数百年蓄積し存在し続けているかのように極めて悪質に濃縮したもの」であるような感じがいたしますが、それゆえに私はそれを積極的に掃除していくべきでございましたし、またその上で積徳によって心身の底からの浄化を願うべきでございました。にもかかわらず、自分の浄化を語るわけではなく他人様の「浄化」を語るという、これこそ行動宗教とする「本来の信仰の道」から、自らがズレたことをしていたことになっていたのでございます。


「邪をとる課題」


 私の場合は「怒り」についてでございます。「神性」を戻していくためには、まだまだ他の課題もございますが、最も難しい問題点でございますので、まずはこのことを意識してまいりたいと思います。

 私の「怒り」には、だいたい2つの経路がございます。

 「一つ目の怒り」はお相手の方の「相談」にたいしてでございます。「相手に話が通じなくて複雑な問題が解決できずに困っている。」といった相談です。「相手にも非はあるが一理もあり、それは磨いてくださっているのでむしろ有り難い磨きと捉えてください。人間関係の因縁とはそういうものですよ。」などと詳しくお伝えするのですが、人間は感情的となればなかなか自らの非をハッと認識できないもので、その都度お祈りしながら御浄霊をしっかりさせていただくと、大抵は「自分も悪かったなあ。」ということを言われることが多かったのでございます。
 しかし、私自身が出来ている問題レベルであれば、そうもできたのでございましょうが、私自身に身についていないレベルであれば、結局は「理を網羅してお伝えする」という同じ話の繰り返しで、いくら斬新なとき方や新しい組み立て方を工夫したとしても、結局は相手の方は問題が解決に向かわず、特に期待して初めて起こしの方は、しばらくすると相談をすることもだんだん嫌になって遠ざかった方もおらられたと思っています。しかし信頼していただいている方は、懸命に聞いてこられます。この信頼していただいている非常に親しい方にたいして、「そうではない!」と言われ続けますと、「そうなのだ!」という事を言い続けて、それはやがて感情を害して「怒り」のようになって「空虚な言葉の掛け合い」になってしまっていることがあるのでございます。

 そうして「二つ目の怒り」につきましては、その親しい方からの「忠言」にたいして、「それは誤解だ。」と反論して「怒り」のようになってしまうということです。これは”自分はある程度できているのだ”という「驕り」から出てくるものでございます。もし、普段から自分の魂の低さを見つめていて、積極的な向上を心掛けていましたら、”自分の悪いところを変える良い材料はないかな”と積極的に人の話を聞き入れていく姿勢があり、むしろお詫びと感謝の言葉があったことでしょう。先日「自分は話に酔っているんだ。」と言われたことにショックを覚えました。

 今後どのような厳しい忠告であっても、今後は「そういうところがあるかもしれない。考えてみるので、言いにくいことを言ってくれてありがとう。」と言って、深く自分の悪癖を探る材料に変えていきたいと思います。また、そのように自分に本気で懸命に忠告してくれる方を大事にして、「忠告を聞いてすぐに感謝が湧いて言葉に出るぐらいの人格にまで高めさせていただく」ことが、私の一つの「課題」にしなければならないと、そう決めております。

 そうして「怒り」について私は「誤解している点」に気付かせていただきました。「景仰」などにございますように、メシヤ様は側近にたいしてほど、間違っていることに非常に御厳しく御注意あそばされましたが、これは間違いを覚らせるためや御神業のお邪魔をしているからと思われますが、私はそうした御教えを拝読して、”正しい真理だから時に言いたくはないが厳しく伝えなければならない”ということまでは良いのだろうと思いますが、当然ながらお相手の方を「叱り注意する」ということは、それは人間の心底が御見通しあそばされている主神様であるからこそ出来るのでございまして、御教えにございますように、人間が人間に「あれはいけない、これしてはいけない。」など注意するということすら、全く本当に善悪がわかるものではない人間がすべきことではございませんで、ましてや感情的となり「怒り憤慨」してしまうということは、御教えにございますように、人間というものは憤慨するほど偉くはないのでございまして、御句に倣いまして「馬鹿野郎!よく考えりゃ私の事」ということに掛けまして、その心は「自らの智慧の低さに怒りをまかせて、相手を曇らせるという言語道断はしないこと」として、これも一つの「課題」としてしっかりと魂に染み付けていけるように常に意識して、身に付けてまいる所存でございます。

 さらにもっと自らの「言動」の深層を考えてみますと、自分が人様にたいして「○○や○○をしてはどうですか?」などと言っている自分は、「幽界」あるいは「霊界」という「見えない世界」において、「現界で隠された心のそのまま」が言葉となって発せされていて、周囲から自分の魂や心や霊体の曇りの有様とともに「そのままの言葉」を聞いておられるかと想像いたします。そういたしますと、これまでの御垂示によって明確に御示し賜っておりますとおり、“自分は魂輝く発光体ではなく、汚い自分のまま綺麗事だけを語っているので、お世話する人の向上が止まったり、新たに救いを求めて続々と人々が寄ってこないのだ”ということであったわけでございます。こうした「見えない世界にいる自分の姿を常に強く意識していく」ということも、私の一つの「課題」と捉えている次第でございます。

 こうして「魂に染み付いた悪癖」が自らの「言葉」と「行動」として現れているということを考えますと、前述の「なぜ自分がお世話した方の進歩が止まったままなのか?」と自問したことや、また御垂示より賜ったとおり「なぜ新しい人が続々寄ってこないのか?」というその原因を自分に当てはめさせていただいて、ひとつひとつ気付かせていただいてございます。そうして、自分に課すべき「課題」というものも、数は少ないですが明らかにすることができましたので、しっかりとまずはそこから始めたいと思っている所存です。

 こうした愚かで未熟であったことを、心底御見通しあそばされる『ミクラタナの大御神様』に有り難くも申し訳なくも、御注意賜ったと受け止めております。

 また日常生活のなかで私も医学についての学びをして「智」に偏りがちになりますが、信者の方からも、仕事や家事に追われて心身疲れてしまい「信仰のほうに頭が向きにくい。」ということもお聞きします。天津祝詞を奏上している際に、祓戸大神様、天津神国津神八百万神達様の御名が出てまいりますが、”神界では科学の担当の神様もいるし、神々様ゆえにそれぞれの御役目を立派に担われているではないか”と思い、”魂が高まると、今、鈍智であるが、深く物事や真理がわかる智慧がついて物事がスムーズにいくようになる”と、自らの勘違いや甘えを自省した次第でございます。

 その晩に善言讃詞を奏上させていただいていると、”「真の使命」を許されるために「邪をとる課題」と書いたものの、邪をとることが読んだ方に暗く写っていないだろうか”と思われ、”「使命」というのは、この世に生をうけて地上天国建設の何かを担うように命ぜられたものであるが、「あなたはどうして地上天国建設の神輿を担ぎたいのですか?」と問われれば、厳と「使命」と答えるか、愛で「素晴らしい世界だから」と答えるだろうか・・・”と暫く考えました。
 そうして御教え拝読を終えたときに、”人を生かして御与えになっている「使命」は、主神様が人間をして地上天国を御創りあそばされるための「大慈愛」からきている。というのも、そもそも大宇宙も太陽系も地球も地上天国も、すべて御創造あそばされる御目的は、人間のためにある。この主神様の「大慈愛」によって存在する一切にたいして感謝と親しみが満ち満ちているのが『法悦の境地』である。とすれば、「大慈愛」によっていよいよ地上天国が目睫にきている今、そのための「命題」にたいして大いに感謝して、「地上天国建設の悦びの課題」と捉えて、我を出さず悪執着をとって、善行を積み重ね、その繰り返しによって魂を上げていこう”と思わされました。


「浄化の時節と命題の期限」


 今度は本当の御神業で以前の浄化とは異なり、世界に光が充満した中心の強烈な光は、来年三月からメシヤ教および世界救世教や関連団体の信者から増し、清まった人には非常に喜ぶべきこととなり、多分に穢れたままの人には「大浄化」となるものと思われます。

 それに先立って、わたしたち「メシヤ教で立場ある者」につきましては、その来年三月までにそれ相当に高まっていなければ、来年三月からの大浄化のなかで、自分自身が大浄化し、私たちの次の方も高まっていくこともできませんし、仆(たお)れられていく方々への「救い」もできないということに繋がってくるのでございます。

 その「大浄化」について、立場ある者である私が「高まらない」ままで他人事の文章にして、みなさまへ「大浄化」についての認識を誤魔化して甘く写してまったのでございます。この場で、みなさまへ謹んで深くお詫び申し上げます。

 このように優しくも厳しくも御垂示賜ることができるのは地球に御降臨あそばされている主神様すなわち『ミクラタナの大御神様』ゆえに思いますと、ひたすら感謝が湧いてまいります。もし、いま『ミクラタナの大御神様』が『メシヤ様』としての御垂示を御垂れあそばされるとすれば、私の将来はひとたまりもなく決せられることでしょう。

 来年の三月三日には、立場ある者である私は、『メシヤ様』から本格的な救いと建設の御力を賜ることを御許し賜れるようにと、それまで浄め高めさせていただいて、そうして平成30年3月3日には、一人でも多くの人が地上天国実現のために「メシヤ様の御働き」を熱望し『メシヤ様』を御迎えさせていただいて、世の救いと建設の絶対的な御力、御示しを賜ることが許されますように、そのために自分も御使いが許されますことを願い、これから一層精進してまいりたいと思います。


 これにたいして、平成28年12月8日に以下御垂示賜りました。


 『3月3日から浄化が開始されるのではなくもうその中にあるので、その点の認識がまだ違う。』


 このことについて楳木代表より以下お教えいただきました。

 「具体的には、立場を許されている者が来年3月3日までに高まり(神性を取り戻す努力を重ねる)、そして、高まった者が、次の者(現在立場をいただいてはいない信者やメシヤ教以外で志を有する者)が再来年の3月3日までに高まる、というお世話に取り組むということが正しい認識です。
 それが「世界救世(メシヤ)教」を復興する取り組みなのです。」
 
 私が思っていましたのは、”現在は「浄化」の真っ只中で、だんだんと光が強まるために3月3日からはだんだんと「大浄化」となるということだろうか、それまでに高まらないといけない人は、私などのように支部を任されている人は勿論だが、出張所などある程度人がきてお世話をする立場にある人も含まれるのだろうか”とわからないまま、「立場がある者」として書き記しておりましたところ、明確にお教えいただきました。

 ただし、『真っ只中なのだ。』という御言葉をまだハッキリわかっていなかったのでございます。3月3日までには時間があるので私も今後どのような「浄化」をいただけてまいるのかという、自分にたいする「浄化」すら期限にむけて認識が明確ではなかったのでございます。そうして、「浄化」は「個人の曇りの程度差」によって、すでに「大浄化」として結果、命を終えている方々もどんどん増えているために、一層今ある自身を省みて、積極的に自らの悪を絶ちつつ魂を向上させていなかければならない緊要時と思わせていただきました。現在は浄化の『真っ只中』であるということでございまして、だんだんと光が強まって浄化が強まってくる、ということは言えるかと思います。

 『今、神界はメシヤ教の者達が高まるのを待っているのだ。』という御言葉から、”どういうことを御用意あそばされているのか”ということを考えますと、”今、いろいろと地上天国をつくる上でいわば足らない材料や欲しい材料があり不安もあるが、高まるにごとにそうした不安も順次一掃していただけるようにも御用意あそばされているとすれば、日々の勤めを果させていただきながら、本当に緊要の課題は霊性の向上しかない”と思わせていただきました。期限に間に合うようにピントを合わせさせていただいて、本格的に開始される地上天国実現に使命を賜れる魂の向上へと目指してまいりたいと思います。


「変わったこと」


 まだまだピンボケではございますが、最初に御注意賜った内容を拝して、”これはいよいよ変わっていかなければならない”と思ったときに、ある方からメールで「いままでのことを振り返ると、すべて自分の責任です。今までは家族に任せて自分は・・・」といった内容のものが届き、”これほどに霊界に響くのか”とビックリいたし、それからすぐHPに御垂示内容と御詫びを書かせていただいたのでございます。なお、支部に来られている親しい信者の二人から、それぞれ愛情と規律の手本にみせていただいていることに、”私が修行させられているな、本当にありがたいな”と思っていました。

 翌日には別の方から、一日祭でお話した内容について「切り刻まれた心の傷が癒されました。私も気付かないうちに人の心を切り刻んでいたんだろうな。人を斬りつけるような職場の中でありがとうというようにしています。」とメールをいただいて、”私もそのような心がけをもっとしていきなさいということだなあ”と思いつつ、「御浄霊をいただいて紫の光から最後は真ん中から金色の光が見え出した。」といった内容が書かれていましたので、”これからだな”と励まされたかのように思いました。

 さらに翌日には、とある教団の専従者の方が月次祭の代参にいきたいという連絡が入り、そうしてお会いしてから、御垂示内容と私自身の「変わらないといけない時期に来た」という話をして、「別の教団の専従者の方が専従を止める決心をしてメシヤ大黒天様をいただき、退職日の翌日から正社員で働ける仕事がすぐみつかり、天職だと喜んでいました。」という話をしましたら、「話を聞いているうちに、自分も大黒様をいただきたくなり、家にあるものを次回もって行きます。仏壇も設けたいので家族と話を・・・」と言われ、急に心の変わられ様にビックリいたしました。

 翌日ぐらいかに、すぐ近所のある方と話をしたのですが、”いつも挨拶程度で寄り付いてこないのに、丁寧に相手を敬い、自らの至らなさを自覚して言葉に気をつけて話をすると、こんなにも長く話が気持ちよくできるのだな”とつくづく思わされました。

 そうして12月の支部月次祭は、各地で楳木代表が出向されない拠点はそこの責任者が代行させていただくことになっておりまして、当日の朝に私は掃除機をかけてそれを棚に仕舞うときに落っことしてしまいました。コードの入り口が欠けてスルスルと全部中に入っていってしまいました。”掃除は浄化なので、浄化にたいする導き方が間違えているのかな”と考えましたが、その日の朝に楳木代表のほうに先ほど書きました『・・・認識がまだ違う。』という御垂示が伝わっていたことを知り、”正霊様もよほど働いてくださっておられるのかな”と本当に働いてくださっている霊に申し訳なく思いました。

 そうして月次祭で、いままでのことを自省して祝詞を奏上させていただきましたが、鼻をすすっておられる方が何人かおられましたので、御浄霊のお取次ぎ中、”私が曇りを作らせたり、写してしまったので、大変申し訳なかった”と思わず涙が溢れてまいりました。そうして、HPに書いたような私自身の話をしましたが、後から知らされましたことに、「誰さんが今日は話が良かったと言ってましたよ。」と嬉しくなることも言われましたが、天井から小さな蜘蛛が私の目の前に下りてきて、端から端に遮る様に動いていたことも知らされ、”もっともっと蜘蛛が近寄れないぐらいに言葉が光っていかないとなあ”と思わされました。

 以降現在まで、長引く深刻な家庭問題が、自分が変わる中で家族自身が修正してくれていたという話や、「伝授をいただいてから奇蹟もいただいたが、事故をして怖くなって遠のいていた。」という方からもう何年ぶりかに突然電話をいただいたり、そうしてこれを書いているうちに、もう一年前かに北陸に出向してお話していた方が、今日そこの月次祭に参拝に来られて伝授をいただいたというビックリする報告が入ってまいりました。

 ”本当に想念霊界というものは強くなっており、すべて自分が変わればその分は自然と伝わっていくものだな”と実感し、”これからもっと自分でピントを合わせていかないと、大慈大愛をかけてくださる『ミクラタナの大御神様』に、本当に申し訳ない。「しっかり」を続けて高めていこう”という気持ちでおります。


「御降臨祭 私の祈願について」


 ここでなぜ個人的な私の祈願内容を書かせていただきたいと思ったかと申し上げますと、これは私自身の覚りの部分でもあるからです。

 先日、浄化中の方に「掃除をすると良いですよ。」と言ったのですが、これは「メシヤ講座」でもよく出てきていることでありますが、しかし、お相手の方が自分で”掃除をしよう”という「ヤル気」が起こらないことにはどうしようもありません。

 私は、自らに当てはめて「自身自身を変えるヤル気」というものを考え直しましたら、祈願が明確になったわけでございます。

 自身自身を変えるためには、まず、”自らの何の悪を無くしていけばいいのか?”ということと、”自らの魂を上げていくとはどういうことをしていけばいいのか?”ということは、「神格をいただく道」に示されてございますが、先日それを拝読し終わって、「自分の欠けているもの、出来ていないもの」を明確にいたしました。

 次は、それにたいして何をするかです。”神格をいただくには、神界では副霊がいないので、勇気を出してメシヤ様に、副霊を出していただきたいとお願いするか、あるいは副霊を浄めて神様の使いとしていただきたいとお願いしてみようか”と思い、”口を動かしてお願いするということは、本当に強い意思がいるものだな”と思いました。
 しかしすぐに変だなと思われ、”副霊が悪だからそれを追い出してくださいというのは筋違いで、悪に負けてしまった自分が悪いので、いわば泥棒に誘われて泥棒をした自分が悪いのであるから、たとえ神様が泥棒を追い払ったとしても、また自分が泥棒に誘われて泥棒をしてしまうので、一つ一つ自分が身に付けてきた汚れというのは、一つ一つ自分で悪を取りながら一つ一つ綺麗を身に付けていくしかない。神様というのは、その真実の努力にたいして御応えあそばされるのだ”と思わされました。

 ここで「ヤル気」が湧き出たので、これを祈願にすることになったわけでございます。

 「三巨頭に負けそうになった場合は『メシヤ様』と御呼び申し上げ奉りますので、何卒負けないように私の意思に御力を賜りますようにお願い申し上げ奉ります」ということにいたしました。

 私は、善徳を積ませていただくことより、足を引っ張ろうとする「自らの邪悪に負けない」という「ヤル気」が足らないので、ヤル気が出たならば必ず「努力」して達成しようとしますので、”副霊など邪霊に負けてはいけないので、それらがはびこれないように掃除をしよう”とか、健全なる精神は健全なる肉体に宿るということもまた真なりなので、”ストレスが溜まったら副霊など邪霊に負けやすくなるので、公園などで運動をして肉体も健やかにしていこう”ということをし始めていますし、また”頭でわかっていて腹に落ちないのは、よくみると腹が曇っているし毒で硬くなっている。ぜひここに御浄霊をいただきたい”というように、まずはいろいろ気付いた事をしながら、御降臨祭で御力をいただけるようにお願いできることを楽しみにして過ごさせていただいております。







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